偉人たちの横顔

もう一人の核分裂の発見者“ドイツのキュリー夫人”

リーゼ・マイトナー 1878~1968

その時、彼女は現場にいなかった

ヒットラー政権下の1939年、ドイツの化学者オットー・ハーンが世界で初めて「核分裂を発見した」というニュースが学界を駆け巡りました。(図1)しかし、論文には30年以上もハーンと研究を共にした同い年の物理学者リーゼ・マイトナーの名前はありませんでした。
なぜならユダヤ系オーストリア人のマイトナーはナチスに目を付けられ、大学も研究所も追われてストックホルムに亡命していたからです。彼女は男性優位の社会で自らの才能と努力で道を切り開き、未知の放射性元素を発見するなどの実績を重ね、アインシュタインは稀な女性物理学者として“ドイツのキュリー夫人”と評しました。
研究の発端となったフェルミの論文(ウランに中性子を当てて新元素を発見)に注目してハーンに共同研究を持ちかけたのはマイトナーであり、亡命中に「実験の結果が理論的に説明できない」とハーンから手紙で相談されると「核分裂」という概念を思いつき、ボーアの理論やアインシュタインの相対性理論に当てはめて理論づけたのも彼女でした。
ただ、彼女は実験に立ち会えなかったことが理由で、核分裂を発見した名誉はハーンが独占し、1944年にノーベル化学賞を受賞します。

男性優位社会の屈辱

ウィーンの弁護士の家庭に生まれ育ったリーゼは、文学・科学に限って女性の大学進学が認められたのを機にウィーン大学へ入学。物理学に興味を持ち、大学で4人目の女性博士となり、高名なマリ・キュリーの助手を望みますが空席がありません。そこでベルリン大学の物理学者マックス・プランク(量子論の父)を訪ねると聴講を許されました。
さらに研究する場所を求めていると、オットー・ハーンという気さくな化学者が放射線の共同研究を持ちかけてきました。同い年の二人は、物理学と化学という知識を補完しながら成果を上げていきました。ただ、二人の上司だったエミール・フィッシャー教授(1902年のノーベル化学賞受賞者)は女性の研究室への入室を許さず、マイトナーは地下の木工作業所で実験を行い、用を足す時は近くのカフェへ急ぎました。
5年間に及ぶ地下の実験生活でアルファ線やベータ線のスペクトルを検出するなどの実績を重ね、カイザー・ウィルヘルム研究所に職を得て、ハーンが第一次世界大戦に従軍している間に新元素プロトアクチニウム(原子番号91)を発見します。そして、44歳でベルリン大学の教授の資格を得て、ナチスに追われるまで研究生活を送りました。

没後に逆転した「太陽と月」

控え目な性格のリーゼ・マイトナーは、男性社会の中で常にオットー・ハーンの脇役に甘んじました。それでも歴代受賞者の推薦で、何度もノーベル賞候補に挙げられながら受賞は叶いませんでした。一説では戦前はナチスから圧力がかかり、戦後は選考委員の思惑で評価が分かれたといいます。しかも原子爆弾の投下直後には、核分裂の発見者としてマスコミが殺到しました。これは記者たちがアメリカやドイツの当事者たちに接触できなかったためですが、彼女は「ハーンも私も爆弾の開発には一切、関わっていません」と繰り返しました。
ただ、これがきっかけでワシントンの大学に客員教授として招かれ、1946年の「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれています。美貌ながら生涯独身を通し、長年の共同研究者だったハーンと一緒にいるのは実験室だけで、二人で散歩に出ることさえなかったそうです。
一方のハーンは、ノーベル賞の賞金の一部をマイトナーに譲り、彼女はそれをアインシュタインが運営する原子力物理学者の支援委員会に寄贈しました。ハーンは戦後もマックス・プランク研究所の総裁としてドイ ツの学界をリードしました。
奇しくも二人はともに1968年、89歳で世を去りました。両者の人生はまるで太陽と月のようですが、没後に提案された元素名の命名では、マイトナーにちなむ「マイトネリウム(原子番号109)」は採用されましたがハーンにちなむハーニウムは採用されず「ドブニウム(同105)」が正式名称となりました。

(図1)中性子を吸収したウラン235がクリプトン92とバリウム141に分

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