偉人たちの横顔

「天災は忘れた頃にやってくる」が物理学者の口癖だった

寺田寅彦 1878~1935

「吾輩は猫である」に登場する 物理学者

夏目漱石が明治後期に発表した「吾輩は猫である」に、主人公の苦沙弥先生の元教え子で理学士の「水島寒月」なる人物が登場します。そのモデルが物理学者の寺田寅彦でした。
実際、寅彦は漱石の元教え子で、最も初期の門下生でした。漱石が1896年(明治29年)から約5年間、熊本県の第五高等学校(熊本大学の前身)で英語の教師を務めていた時、教え子の寅彦は大いに感化され、漱石を担いで俳句結社を結成。漱石の親友である正岡子規が主宰する雑誌にも俳句を投稿するほど熱中しました。のちに漱石が作家として独立し、寅彦が東京帝国大学で研究生活をおくるようになってからも二人は親しく交流し、漱石にとって寅彦は特別な存在となりました。(図1)

日本におけるX線結晶解析の パイオニア

寺田寅彦は1878年(明治11年)に高知県士族の長男として東京で生まれ、幼年期に郷里へ転居し、中学まで高知市で過ごします。進路を決定づけたのは、熊本五高での二人の教師との出会いでした。一人は夏目漱石、もう一人が物理学の田丸卓郎(後に東京帝国大学教授)です。田丸の授業によって物理学の面白さに魅了された寅彦は、東京帝国大学理科大学に入学し、長岡半太郎らの教えを受けて実験物理学科を首席で卒業。大学院、講師、助教授とキャリアを積み、31歳でベルリン大学に留学し、38歳で教授に就任します。
この間、ドイツの物理学者ラウエが薄片にした結晶にX線を照射して映し出された斑点を写真撮影し、結晶が格子構造であることとX線が短い波長の電磁波であることを同時に実証しました。これに刺激された寅彦は、医学部で廃棄されたX線装置を修理して蛍光板を用いた実験装置を作り、肉眼で斑点を観察できるよう改良。「X線の結晶透過」という論文をネイチャー誌に発表し、その業績により帝国学士院恩賜賞を受賞しました。(図2)

身近な不思議を科学で ひも解く「寺田物理学」

寅彦の研究対象は幅広く、「尺八の音響学」で学位を取得したかと思えば、地球物理学(地震・測地・火山・気象)の研究で留学し、X線による結晶解析で成果を上げ、さらには墨流しや金平糖の角のでき方、ひび割れのでき方、タンポポの実が浮遊する仕組みなど、ユニークなものも少なくありません。これらは、ある研究課題を追求する過程で浮かんだテーマですが、寅彦が「形のでき方」に強い関心があり、同時に身近な不思議を科学的に探ることを重視した現れでもあります。こうした研究姿勢は、いつしか「寺田物理学」と呼ばれました。(図1)(図2)(図3)
そんな寅彦が1923年(大正12年)9月1日の関東大震災に遭遇したのは上野の喫茶店でした。あわてて外へ飛び出す客や店員をしり目に、激しく揺れる店内に居残り、冷静に現象を観察したそうです。そして、調査委員会の一員として壊滅した首都を調査し、3年後に設立された東京帝国大学地震研究所の所員として地震や火災旋風の研究に取り組む一方、講演や随筆を通して防災への啓発に力を注ぎました。
名文筆家として知られる寅彦ですが、「天災は忘れた頃にやってくる」という警句は、著書に記したものではなく、口癖のように人々に説いたことが口伝えで広まったものです。

(図1)寅彦は漱石を文芸の師と仰いだ

(図2)

(図3)

(図4)

(図5)

一覧へ

C-pressのお申し込み
無料でご自宅までお届けします

エネルギー、原子力、放射線のタイムリーな
話題をメインテーマとしたPR誌。年3回発行。

詳しくはこちら