偉人たちの横顔

「科学は実学」を理念に、医療用X線装置を初めて国産化

二代目 島津源蔵 1869~1951

物理学者村岡教授との出会い

レントゲン博士が1895年(明治27年)にX線を発見したニュースは世界中に伝わり、各国でX線の研究が始まりました。日本でもドイツ留学中の長岡半太郎から情報がもたらされ、かつてヴュルツブルク大学でレントゲンに師事した第三高等学校(京都大学の前身)教授の村岡範為馳は、レントゲン本人に詳細を問い合わせ、研究に着手しました。ところがX線の実験を行おうにも、学校には電源設備もなく、村岡教授は設備の整った島津製作所に協力を要請しました。
当時、島津製作所は教育用の理化学器械の開発から製造販売まで手掛ける会社で、高電圧を発生させる機械も開発し「島津の電気」として知られていました。製作所を率いるのは二十代半ばの二代目島津源蔵でした。彼は父親譲りの科学好きで、15歳の時に独力で「感応起電機」を創作するなど、早くから発明家の才能を開花させ、父の急逝によって会社を引き継いだばかりでした。

“レントゲンの島津”の地位を確立

村岡教授と源蔵は、失敗を重ねながらも発電機を使って、レントゲン博士の発見から11ヵ月後の1896年10月10日、X線の撮影に成功しました。そして、源蔵は翌年に教育用X線装置(図1)を商品化し、1909年には国産初の医療用X線装置を開発。この装置は、ベンジン発動機を用いて蓄電池に充電する方式で、千葉県の陸軍病院をはじめ多くの病院に納入されました。
驚くべきは蓄電池も自社製で、1897年に京都帝国大学から注文を受けて鉛蓄電池を作製したのを皮切りに、改良を重ねた「GS蓄電池」(GSはGenzoShimadzuの頭文字から)として、今もなおバッテリーの名ブランドとなっています。
そして、1918年に製造を開始した医療用X線装置「ダイアナ号」(図2)は、透視や撮影など多用途に対応できる装置として広く支持され、“レントゲンの島津”としての地位を確立します(2018年に未来技術遺産に選定)。一方で、源蔵は1927年に放射線技師を育成する学校(現在の京都医療科学大学)を創立し、自ら校長に就任して多くの技師を輩出させます。
源蔵の信念は「科学は実学であり、人々の役に立たなければ意味がない」というもので、実業家としても手腕を発揮し、島津製作所を屈指の精密機器メーカーに育て上げました。

(図1)教育用X線装置

(図2)島津製作所の最初期の医療用X線装置「ダイアナ号」

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