偉人たちの横顔

粒子をもっと速く、もっと強く、高いエネルギーで

物質や宇宙の解明から医療・工業・農業技術の開発まで、科学の進歩に無くてはならない「サイクロトロン(粒子加速器の一種)」。 この装置は1930年代に飛躍的に発展しましたが、そのパイオニアこそ米国の物理学者ローレンスです。 アーネスト・オーランド・ローレンス 1901~1958

1929年夏、カリフォルニア大学の図書館にて

1920年代後半、物理学の最大の関心事は、原子核の構造を調べ、核を構成する粒子の相互作用を研究することでした。それには高いエネルギーで方向性を揃えた粒子を原子核に直撃させて原子核を破壊する必要があります。しかし、多くの研究者が装置の開発に挑んだものの突破口が見つかりません。
カリフォルニア大学バークレー校のローレンスも新進の実験物理学者として、このテーマに関心を持っていました。そして、1929年夏、図書館で見つけたある物理学者の論文に触発され、画期的な装置の構造を思いつきます。「イオン(電荷をもった原子)に運動を続けさせるには、磁石を使って両極の間を動かせばよい。これを繰り返すことで、イオンはらせんを描きながら加速を続け、高いエネルギーを得られるはずだ」。彼はさっそく計算式をもとに自ら装置を設計します。(図1)

粒子加速器サイクロトロン誕生

1930年、全米科学アカデミーで行った公開実験で、ローレンスの加速器は大反響を巻き起こしました。真空にした加速箱の中に2つの半円形の中空電極(ディーという)を向かい合わせ、これに高周波電圧をかけ、さらに電磁石で上下に強い磁場をかけます。するとイオン源から出た粒子は磁場によって円運動しながら加速し、かけた電圧をはるかに上回るエネルギーを記録したのです。
ただ、原子核を破壊するには発信機も磁石も大型化する必要があります。そこで彼は大学院生リビングストンの協力を得て、32年に100万ボルトの加速エネルギーを得られる直径11インチの粒子加速器を完成。ギリシア語で円を表す「サイクロ」と、装置を意味する「トロン」を合わせ『サイクロトロン』と命名。この装置を翌年のシカゴ万博に出品すると、理論物理学の大家ニールス・ボーアが絶賛し、ローレンスは一躍、注目すべき物理学者となりました。

相次ぐ新元素の発見と放射線医学への展開

その後もローレンスは、サイクロトロンの大型化に挑み、34年には27インチ、39年には重水素イオンを1,900万ボルトに加速できる60インチの装置を完成させました。そして多くの研究者がこの装置を活用し、37年にテクネチウム、40~41年にネプツニウム、プルトニウムが発見されました。この業績が評価され、39年のノーベル物理学賞に選ばれますが、なんと彼は授賞式を欠席しました。さらなる大型装置をつくる資金集めのため、ストックホルムへ行く時間がなかったのです。
一方で、サイクロトロンは意外な展開を見せます。医学の道に進んでいたローレンスの弟ジョンは、サイクロトロンで生成される中性子線に注目し、ネズミのがん細胞に照射して治療に成功。そこで、がんを患い余命3カ月と宣告された母親(当時65歳)に世界初の中性子線による放射線治療を行ったのです。これによって彼女は回復して83歳の寿命を全うし、ジョンは放射線医学のパイオニアとなりました。

戦争と平和、そして日本のサイクロトロン再建

ローレンスがノーベル賞を受賞した1939年は欧州で第二次世界大戦が勃発した年です。当初は距離を置いた米国もその渦に飲み込まれ、ドイツの核兵器開発の情報がもたらされると「マンハッタン計画」が始動。ローレンスが所長を務める放射線研究所も戦時体制に組み込まれ開発に協力しました。戦後、彼はサイクロトロンの改良を続ける中で、GHQ(占領軍)によって破壊された日本のサイクロトロン再建のため、51年に来日して助言を与えています。
一方、東西冷戦による核戦争への危機感を抱いたアイゼンハワー大統領が、53年12月、国連で「原子力の平和利用」を提唱。これを機に日本の原子力発電の歴史がスタートし、57年に東海村で実験炉が臨界に達しまし(原子の火)。翌58年、ローレンスは大統領の要請で、ソ連との核実験交渉のためジュネーブへ赴きますが体調を崩して帰国し、8月に世を去りました。

(図1)

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