偉人たちの横顔

苦闘の末に見えた!未知の粒子「中間子」

湯川秀樹 1907年~1981年

無口で孤独なイワンちゃん、 量子論に出会う

1907年(明治40年)1月、地質学者の小川琢治に三男が生まれました。のちの湯川秀樹です。翌年に琢治が京都帝大の教授に招聘されたため、一家は東京から京都へ転居します。秀樹は人づき合いが苦手で無口な子どもでした。子どもの頃のあだ名は「イワンちゃん」。叱られても弁解せず、面倒な事はすべて「言わん!」の一言で済ませたからです。ただ、本人は当時人気だったトルストイの「イワンの馬鹿」が由来ではと後に回想しています。その一方で、教養人の祖父に幼少期から仕込まれた漢学によって読書の力が養われ、父の蔵書を片端から読破していきました。
旧制高校に進んだ秀樹は物理の面白さに目覚め、ドイツのライヘが著した「量子論」に出会います。それは英語で書かれた難解な本でしたが彼は夢中になりました。その頃の物理学の重要テーマは原子の解明で、「原子は原子核という小さくて重い粒子と周囲を回る電子からできている」ことが分かっていました。

世界の物理学から 取り残される不安の中で

1926年(大正15年)、京都帝大の物理学科に進んだ秀樹は、長岡半太郎博士の講演会を聴講し、極小の世界を探求する夢を膨らませます。物理学の進歩はめざましく、数年前は謎だった原子の中の粒子の動きを説明する「量子力学」という分野も生まれました。欧州では、ハイゼンベルク、ディラック、バウリなどの天才が次々に新理論を発表。「うかうかしていては開拓領域が無くなってしまう」という焦りを感じつつ大学を卒業し、研究室の副手・講師となり、33年(昭和8年)に大阪帝国大学に移ります。その前年には開業医の娘だった湯川スミと結婚し、婿養子となり湯川姓に変わりました。
公私ともに新たなスタートを切った湯川は、原子の中心にある原子核の謎に挑みます。『原子核はプラスの電気を持つ「陽子」と電気を帯びない「中性子」でできているが、マイナスの電気を持つ粒子がないのに、なぜバラバラにならず安定しているのか。その力は何から生まれるのか』。寝ても覚めてもこの疑問が頭を離れず、不眠症のような日々が続きました。そして27歳になった34年の秋、突拍子もないアイデアがひらめきます。(図1)
「陽子と中性子の間には未知の粒子があり、それが素早く往来しながら二つの粒子を結びつける力(核力)を生んでいるのではないか」。この仮説をもとに、未知の粒子の重さを計算すると電子と陽子の中間の重さで、電子の重さの200倍はあるはずと導き出しました。

中間子論の発表から15年後に 日本初のノーベル賞

未知の粒子を「中間子」と名付けた理論を11月に学会で、翌年には英文で発表しましたが、大胆すぎる説に反応は冷ややかでした。2年後に量子論の開拓者であるボーアが来日した際に評価を仰ぎましたが理論は認められませんでした。湯川は失望しましたが奇跡が起こります。
1937年、米国のアンダーソンが宇宙線の観測で中間子と思われる粒子を発見というニュースがもたらされたのです(後年、素粒子のレプトンと判明)。中間子論は一転して世界の注目を集め、湯川は国際学会に招かれますが世界大戦の勃発で会議は中止。湯川は欧州から米国へ渡り、アインシュタインと議論を交わし中間子論への自信を深めます。
こうした功績によって39年には32歳の若さで京都帝大の教授に就任し、43年には史上最年少で文化勲章を受章します。そして、47年に決定的な出来事が起こります。英国の物理学者パウエルが宇宙線の軌跡から湯川が予言したパイ中間子(核力中間子)を発見したのです。これによって49年(昭和24年)に日本人初のノーベル物理学賞が授与されました。当時の日本はGHQの占領下で戦後復興の只中にあり、多くの日本人が敗戦の傷を引きずっていました。そうした中でのノーベル賞受賞は、日本人の未来を明るく照らす希望の光となったのです

(図1)

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