偉人たちの横顔

くりこみ理論を発案し、量子力学の大問題を解決

朝永振一郎 1906年~1979年

“泣き虫しんちゃん”と 湯川秀樹との奇縁

朝永振一郎は東京の哲学者の家に生まれ、7歳の時に父が京都帝国大学の教授に就任し、京都へ転居します。学者の子で、東京から京都へといえば湯川秀樹を連想しますが、その後の二人は磁石で吸い寄せられるように同じ中学・高校・大学と同期入学し、揃って理論物理学の道へ進みました。さらに京都帝大の研究室では机を並べ、戦後にノーベル物理学賞を受賞するなど、驚くべき共通性はまさに奇縁です。
彼は幼い頃から病弱で、泣いてばかりいて“泣き虫しんちゃん”と呼ばれたそうです。家で過ごす時間が多かったため読書が大好きで、科学に引き寄与せられたのも雨戸の節穴から差し込む光によって、逆さになった庭の景色が障子に映る不思議に関心を持ったからでした。そして、中学に上がると理科の実験に夢中になり、ガラス管を溶かして自作のレンズをつくるほど熱中しました。

仁科研究室は “科学者の自由な楽園”

1922年(大正11年)、ノーベル賞決定直後のアインシュタイン博士が来日し、日本中が熱狂。中学生の振一郎は博士の研究に強く惹かれ、高等学校で物理学を学び始めます。そして、京都帝国大学理学部では、まだ専門書もない最先端の量子力学を探究しようと、湯川秀樹や先輩学生らと独自の勉強を続けました。
1931年(昭和6年)、京都帝大で無給副手を務めていた時に転機が訪れます。日本における量子力学の第一人者・仁科芳雄博士が京都帝大で1カ月の講義を行い、彼は仁科博士に自らの研究や将来について相談したのです。すると仁科博士から「東京の理化学研究所(理研)に新しい研究室をつくるが、一緒にやらないか」と誘われたのです。振一郎には願ってもないことでした。
 理研に入所して驚いたのは仁科研究室の自由闊達さでした。年功序列も学閥もなく自由に討論して研究を進める。それは仁科自身がニールス・ボーアの研究所で会得した方式でした。その中で振一郎は理論物理学者として頭角を現すとともに、時に銀座へ繰り出し、寄席や演劇に親しみ、ハイキングを楽しむなどして体力を養い、人間的な幅を広げていきます。彼はこの時代の理研を「科学者の自由な楽園」と評しています。

廃墟の中の朝永ゼミで生まれた 「くりこみ理論」

31歳の振一郎は仁科博士の勧めでドイツに留学しますが、第二次世界大戦が始まり、2年足らずで帰国を余儀なくされます。さらに東京文理科大学(筑波大学の前身)の教授となった直後に太平洋戦争が勃発し、物資も情報も不足する中で理論物理の研究に没頭します。この間に完成させたのが、時間の進み方は観察する場所で変わるとする「相対性理論」と時間は絶対とする「量子力学」の矛盾点を解決した「超多時間理論」でした。これは英国のディラックが提唱した多時間理論を発展させたもので、後に「くりこみ理論」に結びつきます。
終戦後、朝永研究室は新宿の焼野原に残った旧陸軍技術研究所で再開され、廃墟の中で開かれた朝永ゼミに30人ほどの若手研究者が参加しました。このゼミで討論中に着想したのが「くりこみ理論」でした。
当時の物理学界では、電子の質量は実験で測定できるのに、量子力学の理論で電子の質量を計算すると「無限大」という結果が導かれて計算できなくなり、多くの研究者が頭を悩ませていました。
振一郎は、理論から得られる質量と電荷の値を実測値に置き換えれば、すべての物理量に有限値を与え、計算が可能になると考えました。これによって量子力学が抱えていた矛盾は解消されたのです。(図1)
振一郎は、この「くりこみ理論」を1947年に発表し、物理学界に衝撃を与えました。そして、1965年(昭和40年)、米国で同様の理論を考案していたR・ファインマン、J・シュウィンガーとともに、ノーベル物理学賞に輝きました。かつて席を並べて研究した湯川秀樹のノーベル賞受賞から16年後、7回も候補に挙がった末の快挙でした。

(図1)

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