命がけで「雷=電気」を検証した”建国の父”
ベンジャミン・フランクリン 1706年-1790年
独力で実業家として成功し42歳から政治・科学の道へ
独立宣言の起草者に名を連ね、肖像が100ドル紙幣に刻まれ、“建国の父”の一人と讃えられるフランクリンは、アメリカンドリームの先駆けでした。
北米が英国/フランス領だったボストンで、ろうそくや石鹸を作る職人の家に生まれた彼は、父の再婚で兄弟が17人もいる中の15番目の子でした。
家は貧しく10歳で学業から離れて家を手伝い、12歳から出版業を営む兄の徒弟となりました。しかし、5年後に兄と喧嘩の末に絶縁。フィラデルフィアで職を得ると、知事から英国での修行を勧められ、 2年間ロンドンで植字工として研鑽を積みます。
帰国すると印刷会社を興し、経営不振の新聞を買収して全米初のタブロイド判の新聞を発行して大当たりをとりました。さらに、気象の知識や古今の金言を添えたカレンダーを発刊し、毎年1万部を売り、 25年間続くロングセラーに育て上げます。
こうして名声と財力を手にした彼は42歳で事業から引退し、紳士として公職と科学の探求に没頭します。
危険な凧あげ実験で「雷の正体は電気」と証明
彼が魅了されたのは「電気」です。
ライデン瓶に静電気がたまり放電する光を見て「雷の稲妻と電気は同じものでは・・」と考えました。そして、雷を誘導して電気火花を確認する実験を考案し(避雷針のアイデアの原型)、英国王立協会に送り、欧州で出版されました。すると、この本に触発されたフランスのダリバールは方法を一部改良し、1752年5月、パリ郊外の丘に高さ10m余の金属棒を立てて雷を誘電し、雷が電気であることを確認しました。奇しくも1カ月後の嵐の日、フランクリンは金属棒の代わりに凧で雷を誘導する実験を息子と行います。その仕掛けは、雷雨でも破れない絹製の凧に針金を取り付け、凧糸には水に濡れやすい麻糸を用い、金属の鍵を結び付けます。さらに鍵から手元までは、感電防止のため濡れにくい絹糸を使いました。そして、雷で麻糸が帯電して逆立った瞬間、息子に鍵の先にライデン瓶を近づけさせました。すると雷の電気がライデン瓶に蓄電されて火花が生じ、実験は成功しました。
ただ、ダリバールやフランクリンの成果を知った科学者たちが同じ実験を行い、何人も感電死する事態となり、この逸話を紹介する際は「危険、絶対に真似しないように」と注釈が付けられました。
「時は金なり」と唱え社会に奉仕し続けた人生
彼は研究成果を避雷針の発明・普及に発展させ、燃焼効率の良いストーブや遠近両用眼鏡も発明し、いずれも特許を出願しませんでした。また、気象や海流の研究でも功績を残し、「メキシコ湾流」の命名者でもあります。さらに全米初の公共図書館やアメリカ学術協会を設立し、ペンシルバニア大学の創設にも協力しています。
そして、政治家としては独立戦争(1775~83年)のための弾薬を調達するためフランスの協力を取り付けるなど外交官としても活躍しました。
勤勉、倹約家、大変な勉強家で、「時は金なり」と説いて努力を怠らなかった84年の生涯でした。