シリーズ偉人たち

貧しきアマチュア学者、電気の伝導性を発見

スティーヴン・グレイ 1666年頃-1736年

カンタベリーの染物屋は科学好き

天文学・医学・物理学などが進展した17世紀後半でも、科学に対する世間の認識は「金持ちの趣味道楽」でした。そんな時代の英国カンタベリーで染物屋の三男として生まれたスティーヴン・グレイは、子どもの頃から自然科学や天文学に心を奪われていました。そして、当主の長兄が若くして世を去ったため30歳目前のスティーヴン(以降、グレイ)が染物屋の主となりました。
 しかし、家業を継いでも科学への関心は衰えず、裕福な友人から天文学の本や科学機器を借りて独学し、ついにはレンズの研磨から始めて望遠鏡まで作り上げました。しかも、このアマチュア天文学者の観測は正確で、小さな発見を重ねるうちに王立協会がその報告を出版するまでになったのです。 
 この活躍に目をとめたのが、グリニッジ天文台の初代台長ジョン・フラムスティードでした。彼は正確な全天星図をつくるためグレイに観測や計算を手伝うよう持ちかけたのです。

貧窮の末に救貧院の住人となる

 しかし、幸福な日々は長く続きませんでした。師匠のフラムスティードが星図に関する論争で対立したニュートンとの派閥抗争に敗れ、王立協会の片隅に追いやられたのです。
そして、41歳になったグレイは、ニュートン派の天文学者のもとで太陽黒点の観測や摩擦電気の実験に携わりましたが成果は上がらず、職を辞してカンタベリーの染物屋
に戻りました。そこへ現れたのが、気鋭の科学者ジョン・デサグリエです。
 彼はニュートンの理論を広めるため小型の機械式プラネタリウムを携行し、英国や欧州大陸での講演旅行を計画。その助手としてグレイを誘いました。グレイはこれに応じて旅行に同行しますが、宿泊場所をあてがわれただけで報酬は無給だったため次第に貧窮します。
 状況を見かねたフラムスティードなどが尽力し、50歳を過ぎたグレイは年金を受給できるようになり、ロンドンのチャーターハウス(救貧院)の住人となります。

電気は物体を通じて伝わる人の体も…

驚くべきことに、その後もグレイは自身の貧困の元になった科学実験を止めませんでした。救貧院の自室で、ガラス管を摩擦する起電機などを製作して静電気の実験を再開。ある夜、管をふさいだコルク栓に紙やモミ殻が吸い寄せられる光景を見て「電気は物体を通じて伝わるのでは」と考えました。当時、摩擦による物体の帯電は知られていましたが、電気の伝導性は知られていませんでした。
 グレイはそれを確かめようと、コルクから細い糸を伸ばし、象牙の球を接触させて電気の伝導を確認。さらに実験はエスカレートし、1729年(63歳)5月、友人の屋敷を借りて、電気が絹糸を伝わる距離を少しずつ伸ばし、その距離は270mに達しました。
 また、物体には電気を通しやすい「導体」と通しにくい「不導体」があることを確かめるため、火かき棒・銅のやかん・牛の腰骨・世界地図・ひな鳥など様々なもので実験を繰り返しました。人間の体はどうか?それを試したのが「フライング・ボーイ」と呼ばれる有名な実験です。人の好い給仕の少年を絹糸で吊るし、帯電させたガラス棒を少年の足の裏に接触させ、手の先や象牙の球に軽い物が引き寄せられるかを試したのです。こうしてグレイは電気が人の体を伝わることを確認しました。

最晩年に訪れた名誉
科学の不思議に魅入られたために波乱の人生をおくったグレイでしたが、 1727年に学界のボスだったニュートンが世を去って王立協会の会長が交代すると、ようやくその業績に光が当たりました。
 1731年、彼が65歳の年に優れた科学業績を讃える「コプリ賞」が創設され、グレイは第1回受賞者に選ばれます。そして、翌年も連続受賞し、1733年には王立協会の会員に選出され、その3年後に人生の幕を降ろします。まさに科学の探求にすべてを捧げた70年の生涯でした。残念ながらグレイの肖像画は確認できません。平民であり経済的に余裕のない彼には、とても画家に支払う報酬など用意できなかったからではないかと推測されます。

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