次代につながる摩擦起電機の発明と改良
オットー・フォン・ゲーリケ,フランシス・ホークスビー ゲーリケ(1602~1686年) 、ホークスビー(1660~1713年)
理系の市長、真空ポンプを発明し皇帝の前で実験
ドイツ北東部の古都マクデブルク市の名家に生まれたゲーリケは、大学で数学や力学を学んだ後、オランダ・英国・フランスに遊学し、1627年に帰国しました。しかし、この時、プロテスタント(新教)派のマクデブルク市は、対立するカトリック派と「三十年戦争」の只中にあり、31~32年にカトリック軍に包囲・攻撃されて街は壊滅。ゲーリケは街の復興のため建築技師として奮闘し、46年に市長に選ばれ、その2年後に戦争は終結します。
ゲーリケにとって科学の追求は生きがいであり、たとえ戦争中でも科学の疑問を考える時間は悦びであり、気分転換でもあったことでしょう。そして、世情が落ち着くと興味を持っていた「真空」の研究に着手し、吹子を往復運動させる方式の真空ポンプを考案。54年にローマ皇帝の求めに応じ、中空の銅製半球2個を合わせて球にし、真空ポンプで空気を抜き、両側から馬8頭ずつで引かせても離れないという実験を披露して人々を驚かせました。
1663年、世界で初めて摩擦起電機を発明
彼の飽くなき探究心は「電気」にも向けられました。琥珀が羽毛を吸い寄せることに興味を持っていたゲーリケは、琥珀を強くこすって他の物体に近づけるとパチパチ音を立てること、暗闇ではわずかに光ることを発見し、もっと強い電気の発生を試みます。そして、琥珀の代わりに硫黄を用い、直径25cmの硫黄球をつくり、これに軸をつけて焼き物のろくろのように回転させ、乾いた手を触れると強い電気が発生したのです。これは何度でも電気を取り出せる装置としては世界初のもので、この装置によって火花放電現象などの確認や後のフランクリン(米国)の凧揚げ実験にもつながっていきます。
ニュートンの提言でガラス球の起電機が誕生
18世紀になって起電機は大きく進歩します。その立役者は、英国王立学会会長のアイザック・ニュートンと弟子の実験技師フランシス・ホークスビーでした。ニュートンはゲーリケが考案した硫黄球の代わりにガラス球を用いることを提案。腕利きのホークスビーはゲーリケの装置に改良を加え、ガラス球を高速回転させて毛織布でこする摩擦起電機を製作し、ガラス球の中に少量の水銀を入れて放電させました。するとガラス球がこすられると球内に雷のような紫色の光が満ち、読書ができるほどの明るさが出現したのです。これこそ後の「水銀灯」の実用化につながる発見でした。なお、中部電力の「でんきの科学館」(名古屋市伏見)の2階には、彼らが考案した摩擦起電機の模型が展示されています。