シリーズ偉人たち

南半球から来た若者、「原子物理学の父」となる

アーネスト・ラザフォード 18711~1937

英国で実験物理学の才能が開花

日本ではレントゲンやキュリー夫妻ほど知られていませんが、同時代の物理学者でラザフォードほど歴史に多くの業績を刻んだ人物はいません。ニュージーランドの農家に生まれ、優秀だったものの志望した高校教師には採用されず、X線が発見された1895年に渡英し、ケンブリッジ大学の物理学研究所の研究員になります。ここで指導を受けたのが後に電子の発見でノーベル賞を受賞するJ.J.トムソン教授でした。
ここから快進撃が始まります。1898年にウランから2種類の放射線(α線とβ線)が出ていることを発見し、数年後にγ線も発見して、放射線には透過力の違いがあることを突き止めます。(図1)
そして、教授として着任したカナダの大学では、共同研究者と放射能の「半減期」(原子崩壊説)を唱え、マンチェスター大学に赴任すると助手のハンス・ガイガーとともに、α線がヘリウム原子核であることを発
見。さらにα粒子の一つ一つを数える方法を開発し、後のガイガー・ミュラー計数管の礎となります。彼の見事さは、万事を独力でこなすのではなく、共同研究者と力を合わせて大発見を次々に成し遂げた点です。
これらの業績により、1908年、ラザフォードは弱冠37歳でノーベル化学賞を受賞しました。

多くの教え子がノーベル賞を受賞

その後も彼は研究の手を緩めず、1911年には共同研究者たちとα線の照射実験中に、α線が何かに当たって進路が変わることに気づき「原子核」を発見。(図2)これに基づいて、原子の構造は太陽の周りを惑星が回るように、中心核(原子核)の周りを電子が回っているとする「原子模型」を発表しました。これは当時、諸説あった原子構造の論争に終止符を打つものでした。
彼のもとには各国の逸材が集まりましたが、それは名声によるものではなく、若き研究者たちを「ボーイズ(息子たち)」と呼び、研究予算や実験機器の整備のため奔走するラザフォードの人柄が慕われたためでした。そして、ボーア、チャドウィック、モーズリー、メンデレーエフ、ブラケット、カピッツアなど傑出した科学者を育て上げ、多数のノーベル賞受賞者を輩出。後年、ラザフォードが「原子物理学の父」と呼ばれる所以です。
かつて高校教師の道をあきらめた青年が、長じて世界的な科学者を数多く育てる名伯楽になるとは、何とも素敵な皮肉です。現在、ラザフォードの原子模型の図は、国際原子力機関(IAEA)を初め多くの団体がマークに採用し、ラザフォードの肖像はニュージーランド100ドル紙幣に使われ人々に親しまれています。(図3)

(図1)

(図2)

(図3)国際原子力機関のシンボルマーク

一覧へ

C-pressのお申し込み
無料でご自宅までお届けします

エネルギー、原子力、放射線のタイムリーな
話題をメインテーマとしたPR誌。年3回発行。

詳しくはこちら