化学反応の仕組み解明に、量子力学を持ち込んだ“ひらめき”
福井謙一 1918年 ~1998年
心の師は『昆虫記』のファーブル
奈良県に生まれた福井謙一は、長じて京都大学の理論化学の研究者となり、1952年に量子力学の考え方を採り入れて化学反応の仕組みを解き明かした「フロンティア軌道理論」を発表し、1981年に日本人初のノーベル化学賞を受賞しました。
少年時代は昆虫が大好きで、中学校では生物同好会に入り、山々で採集を続けました。愛読書は『ファーブル昆虫記』です。自身が「この本は私の魂をゆさぶった。
ファーブルは生涯の心の師」と語っていますが、そこには苦労しながら博物学から数学・物理・化学など幅広い知識を習得し、晩年近くに歴史的名著を世に出したアンリ・ファーブルの科学的な考え方や生き方に深く共感したからでしょう。
数学が好きなら化学をやれ
謙一が化学の世界に足を踏み入れるきっかけになったのは、父親が進路を相談した親戚の京都大学教授の助言でした。「数学が好きなのか。それなら化学をやりなさい。これからは量子力学には欠かせない数学を得意とする人材が、化学の発展のために必要なのです」と教授は自身の専門である応用化学を勧めたのです。謙一にとって化学は暗記科目という印象が強く、あまり好きではありませんでしたが、何か直感が働いたのか助言通り工学部工業化学科に進学します。
ユニークだったのは勉強の方法です。「基礎をしっかりやりなさい」という教授の指導を「化学の基礎とは物理や数学だ」と自分流に解釈し、専門ではない理学部の講義をこっそり聴講したり、物理学科の図書館で専門書を読んだりしました。1930年代後半は量子力学が確立された時代で、謙一はこの新たな学問に興味が湧き、ほぼ独学で知識を吸収していきました。
電子論は完全ではない
日中戦争が激化していた1941年、大学院に進んだ謙一は、陸軍の燃料研究所にも入所し、短期将校として航空機燃料の改良を命じられます。
石油資源が乏しい日本は、マツの樹脂から油を採取して航空機燃料にする研究に取り組んでいました。その担当となった謙一が苦労したのが化学反応による「炭化水素の結合」でした。
化学反応は多くの元素からなる化合物が組み合わさって起こりますが、当時、電子のプラスとマイナスが電気的に引き合うことで化学反応が起きるという「電子説」が発表され、化合物の性質や反応を説明できることがわかってきました。それどころか、電子説で全ての化学反応を説明できるのではと期待されました。
ところが、謙一が研究中の炭化水素は、電荷にプラスやマイナスの分布がなく、みな一様な物質でした。電子説では説明がつきません。謙一は「電子説は完全ではない。炭化水素も含む全ての化学反応を説明解できる法則はないものか」と考えるようになりました。
量子力学の考え方を取り入れた大胆な説
敗戦後も謙一は疑問解明に取り組み、常にメモ帳を傍らに置き“直観(本質の見極め)”や“ひらめき”で浮かんだアイデアを書き留めました。
炭化水素の一つ、ナタレンについて、プラスとマイナスが電気的に引き合うだけでは、化学反応は説明できない。むしろ電子のふるまいを考えるべきではないか?電子の軌道は様々だが、量子力学の視点で考えると、エネルギーの低いところから軌道が電子で埋まっていき、一番外側の軌道はエネルギーが高い。このエネルギーの高い軌道上にある電子が他の原子に飛び移って、そのふるまいが化学反応を起こすと考えれば説明できる」
これは独創的な発想でしたが、化学反応の仕組みを無理なく説明できます。謙一は、最も外側の軌道を「フロンティア(最前線)軌道」、軌道上の電子を「フロンティア電子」と名づけ、1952年に米国の物理学会誌 に発表しました。
しかし、この論文は海外の研究者から反論がなされ、あまり注目されませんでした。それが1965年、米国のウッドワートとホフマンがこの論文を基礎において「化合物の合成法則」を発表すると福井謙一の名は一躍有名になり、1981年ホフマン博士とともに、ノーベル化学賞受賞へとつながったのです。その後、福井理論は半導体に使われるシリコンの加工技術や医薬品の開発など幅広く応用され、産業の発展に大きく貢献しています。