水爆実験による海洋汚染を米国に認めさせた地球学者
猿橋勝子 1920年~2007年
「微量分析の達人」への依頼
1954年(昭和29年)3月1日、米国が太平 洋マーシャル諸島のビキニ環礁で行った水爆実験は、巨大なきのこ雲とともに160㎞離れた海域で操業中のマグロ漁船・第五福竜丸に白い灰を降らせました。数日後には乗組 員の多くが体調不良に襲われ、船は2週間かけて静岡・焼津港へ帰港。診察を受けた乗組員の症状は、明らかな急性放射線障害でした。
国は治療に全力を挙げるとともに、白い灰 の正体究明を東京大学に要請しました。しかし、強い放射能を確認できても今のように 高精度な解析法や機器が未開発の時代に、成分の特定や含有量の計測は容易ではありません。
この時、白羽の矢が立ったのが気象研究 所の研究官・猿橋勝子(34歳)でした。彼女 は上司で恩師でもある地球化学者の三宅 泰雄のもとで大気や海水の化学分析に携 わり、自ら小型の極微量拡散分析装置まで 開発した「微量分析の達人」と評されていた のです。
猿橋は期待に応え、白い灰の正体がサンゴ の粉末で、本来あるべき炭酸カルシウムが水 爆の超高温によって、酸化カルシウムなどに 変質し、11.6%しかないことを突き止めました。
日本の名誉をかけて米国に挑戦
猿橋の分析を機に気象研究所の三宅研 究室は、日本近海における放射性物質の測定が重要な任務となりました。そして、水産庁 (当時)が調査船を派遣したビキニ海 域の汚染データも踏まえ、海流に よって日本近海が米国沿岸より数 十倍も汚染されていることを明らかにしました。ところが米国は「そんな高濃度であるはずはなく、日本のデータは誤り」と批判したのです。
これに対し、三宅は米国原子力委員会に、どちらの測定法が優れているか公に白黒をつけようと申し入 れ、受諾されました。
用意された検証の場は、カリフォルニア 大学の海洋研究所です。1962年4月、猿橋は自ら開発した分析機器や試薬とともに単身 渡米し、放射能分析の世界的権威T.フォル サム博士が率いるチームと相まみえます。ここで日米それぞれの測定法で海水中の放射性物質セシウム134を濃縮・回収し、ガンマ線の線量を測定して含有量を推定するのです。
猿橋にとって完全アウェイの環境と極度の緊張を強いられる中で、持ち前の集中力と技能を発揮し、米国チームをはるかに上回 るセシウムの回収率と精度の高さで圧倒。米国は日本が開発した測定法(AMP法)を 認め、猿橋らが行った海洋汚染データの正しさも認めざるを得ませんでした。
女性科学者を応援する「猿橋賞」を創設
猿橋の活躍は科学分野だけにとどまりま せんでした。1958年には社会運動家として著名な平塚らいてうの依頼で、被爆国の女 性科学者としてウィーンで開催された国際会議(世界婦人集会)で講演し、東西冷戦 下で核兵器の開発が激化する時代にあっ て、核廃絶と国際平和の重要性を強くア ピールしました。
そして、気象研究所では主任研究官・研究室長・研究部長と昇進を重ね、1980年に定年退官を迎えます。5月に行われた退官記念パーティーでは、多くの先輩・同僚・友人などから500万円の祝い金が贈られまし た。すると猿橋はこれを基金に「女性科学者 に明るい未来をの会」を設立したのです。
その主旨は、自身の経験も踏まえ、優れた業績をあげていても、女性であるために低い地位に置かれている科学者の未来に一条の光を当てることです。会が立ち上げたのは 新たな学術賞「猿橋賞」でした。これは50歳未満の優れた女性科学者を顕彰する画期 的な賞で、賞の創設は様々な分野の女性 科学者を勇気づけ、受賞者の多くが自然科 学の第一線で活躍しています。