世界をひっくり返したのは、無名の公務員だった
アルバート・アインシュタイン 1879~1955
磁気コンパスは、なぜ北を指すのか
エジソンが白熱電球を発明した年、南ドイツの商家に生まれたアルバートは、4~5歳の頃に磁気コンパスを見て、針が常に北を指す不思議に驚き、宇宙には目に見えない法則があると感じます。(図1)そして12歳の時、ユークリッド幾何学の本に感銘し、微積分を独習していきます。一人で遊ぶのが好きで、興味のある事だけに没頭する性癖は生涯変わりませんでした。
この性癖は中高等学校時代から周囲との軋轢を生み、軍国主義的なミュンヘンの学校になじめず中退。転入したスイスの学校でコンパスが北を指すのは電磁気の仕業であることを実験で確認し、「光」は空間を移動する電磁波であると教えられました。
暗記と語学は苦手でも数学と物理が抜群だった彼は、チューリッヒ連邦工科大学に入学。教員試験に合格・卒業したものの生意気な言動がたたり母校への就職は叶わず、ノルウエーからイタリアまで就職先を探しますが採用されません。やむなく家庭教師や代用教員で4年間糊口をしのぎ、見かねた親友の口利きで、スイス特許局の技官に採用されたのは23歳。同級生との間に長女が誕生していました。
1905年、無名のアマチュア学者が奇跡を起こす
アルバートは仕事の合間に、16歳から頭を離れない「光の謎」を解くため思考実験を繰り返します。「光を追いかけたら、光はどのように見えるか?光と同じ速さで走れたら光は止まって見えるのか?」…そして26歳の時、半年で5つの論文 ①光の粒子説 ②分子の大きさの決定法 ③ブラウン運動(気体や液体中の微粒子が不規則に動く)の理論化(原子の実在)④特殊相対性理論 ⑤その第2論文「質量とエネルギー」を書き上げ、ドイツの物理学誌に投稿します。
①の論文は量子力学の先駆けですが、ほとんど理解されませんでした。④の理論では、常識とされたニュートンの絶対時間・空間説(どこであれ「時間」は一定に流れ、物体は動いていても不動でも長さは不変)を覆し、『動いている物体は、その速さに応じて進行方向に長さが縮み、重さも重くなり、時間の進み方も遅くなる』と説きました。(図2)こうした変化は普通の速さでは目立たないが、光速に近づくほど顕著。宇宙で唯一不変は光の速度だけで、時間も空間も見る人の状態で変わる相対的なものだ(「時空」の概念)と。(図2)
そして⑤の第2論文には有名な公式「E=mc2」(エネルギー=質量×光速2)が記されていました。これはエネルギーと質量は本質的に同じもの(等価)で、わずかな質量でもエネルギーに変わると莫大な値を生むという画期的な発見でした。後にこの公式によって核分裂(原子爆弾、原子力発電など)や核融合(恒星の輝きなど)が裏付けられます。アマチュア学者がノーベル賞級の論文を立て続けに発表した1905年は、後に「奇跡の年」と呼ばれます。
スーパースター・アインシュタイン誕生
無名の青年の論文が、なぜ権威ある学術誌に掲載されたのか。それは気鋭の物理学者マックス・プランク(1858~1947年)が「彼は20世紀のコペルニクスと言われるだろう」と論文を絶賛したからです。それでも理論が実証されるには科学技術の進歩を待たねばなりません。アルバートは29歳で大学講師となり、いくつかの大学を経て世界大戦が勃発した1914年にベルリン大学の教授となります。この間に没頭したのが特殊相対性理論に重力の働きを加えて発展させた「一般相対性理論」でした。壮大で複雑な理論の完成に10年を費やし、発表した1915年には心身が衰弱して容貌まで変わっていました。(図3)
この理論は「物質は周りの空間を歪める、その力が重力」と結論づけ、強い重力場は光も曲げ、日食では太陽の縁をかすめる星の光が1.75秒の角度だけ曲がると予言。そして1919年5月、英国の科学者がアフリカとブラジルで皆既日食を観測し、予言通りの角度で光が曲がっていることを確認します。『科学の革命!光は曲がり、空間は歪んでいる』というニュースは世界を駆け巡り、アインシュタインは一躍時の人となります。 (次号につづく)
(図1)
(図2)光速に近いスピードで動いているものは、止まっている人から見ると時間が遅く進み、縮んで見える
(図3)